鳥取県会見郡の一揆は、明治6年6月19日から6月26日(23日とも)に起こった。別名を「竹槍騒動」、「会見郡徴兵反対一揆」などと言い、「徴兵令の反対、太陽暦・小学校の廃止」などをかかげて、激烈な打毀しを展開した。6月19日、会見郡谷川村において洋服を着た小学校教員が、同郡古市村では巡回中の羅卒が「血取人」と間違われて襲撃されたのを発端に、20日には会見郡各地に拡大した。一揆勢は各地の戸長宅などを打ち壊し、小学校などもその被害に遭った。21日、日野川河川敷に集結した一揆勢は米子町の県米子支庁に嘆願書を提出、いったん解散した。米子支庁は大阪鎮台などに応援を求めたが、到着は解散後であった。鎮静後には県側による大規模な取締りが行われ、処分されたのは1万1907人、そのうち1人が終身刑となり、罰金の総額も2万4817円に上った。
近畿東海 美容 内職 ポイント 雇用 結婚 多汗症 家電 リラク アクセサリー 家庭教師 公園 語学 国内 バスト 在宅 養毛 SOHO 生活雑貨 リラク 自動車 介護 衣料 通信教育 寝具 学習指導 旅行 音楽 特産物 インプラント キャッシング エイジ 豊胸 起業 子育て 内職 実益 介護 植物 家具 スポーツ 検定 スポット 若返り 交通地図 バスト 探偵 老人 不動産 クレジット
西讃竹槍騒動 [編集]
西讃竹槍騒動(西讃農民騒動とも)は、名東県豊田郡・三野郡・多度郡・那珂郡・阿野郡・鵜足(うたり)郡・香川郡の7郡で6月27日(6月26日とも)から7月6日にかけておきた。放火された村の数は約130村、農民側死者50名、官軍側死者2名。このうち、この一揆がはじまったのは、三野郡下高野(しもたかの)村であった。
この一揆のきっかけにはこの様な話が伝わっている。下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が2人の女の子を抱え、手には竹槍を持ちどこかに飛び出していった。この女を捕まえた下高野村の住民が、「子ぅ取り婆あ」があらわれた、と言って騒いだという。そのころ、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という歌がはやっていたのも関係するらしい。戸長が取調べを行おうとしたが、それを不服としたものたちが戸長に暴行、それに群集が興奮し次第に数を増していき、2万人に達した。
26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだのち、翌27日には、騒ぎは三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに東へと広がっていった。
6月28日、名東県高松支庁は高松営所を派遣し、はやくも6月29日には優勢にたった。そして7月6日これをほぼ鎮圧した。逮捕約282名、うち死刑7名、懲役刑50名(または51名)など、刑に処された者は16,839名(または16,606名、16,654名)にものぼった。
農民の要求は「徴兵令反対、学制反対」また、『肉食行はれしより牛価騰貴貧民困却』と唱えた。これは、牛食が認められると、それが耕作に必要な牛の値まであげ、農業生産を圧迫するのだ、という理屈からきたものであったらしい。農民たちは焼き打ち、打毀し、戸長事務所、小学校、戸長宅、邏卒出張所や民家など計599箇所を破壊した。
また、小学校への毀焼も激しかった。破壊された599箇所のうち48が小学校の数である。一揆をおこした農民は徴兵以外にも、新政のいろいろに不満をもっていたが、1872年に施行された学制に対するそれも大きかった。学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられ、辛いものであったとされる。一揆の鎮圧後、名東県は「速かに学校を興すべき達」というお達しをだし、小学校の復興をいそいだ。
血税 [編集]
血税とは、フランス語の「impôt du sang」の直訳である(impôt=税、sang=血)。この言葉が、1872年11月の徴兵告諭の一節に使われており、そのために農民が誤解して一揆がおこったのだ、という説がある。
「徴兵告諭」の一節:「凡ソ天地ノ間一事一物トシテ税アラサルハナシ以テ国用ニ充ツ然ラハ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ尽シ国ニ報ヒサルヘカラス西人之ヲ称シテ血税と云フ其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ」(原文正字)
この説は、無知蒙昧な農民が、西洋人がひとの生き血をほしがり政府を仲介して手にいれようとしていると勘ちがいしたのだ[1]、とする。実際、下記の様な話がある。しかし、血税云々というのは、俗説のたぐいでしかない、という説もある。